昭和52年03月26日 朝の御理解



 御理解 第5節
 「これまで、神がものを言うて聞かせることはあるまい。どこへ参っても、方便で願い捨てであろうが。それでも、一心を立てればわが心に神がござるから、おかげになるのじゃ。生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことなし。此方が祈るところは、天地金乃神と一心なり。」

 神様がものを言うて下さると言うても、噛んで含めるように、言うて下さるわけではない。ここで言われるものの道理と言った様な事を、まぁいわば噛んで含めるように、御理解下さいますけれども。どんなに噛んで含めるように教えても、それを理解しなければならん、分からなければならん。分かるところから分かった事に取り組ませて頂かなければ、おかげにならぬ。
 いかに「ものを言うて下さる」というても、ただね、もちろん仰せどおりに仕りますけれども、仰せどおりに仕るということがですね、練った上にも練れなければ、分かった上にも分かっていかなければでけんのです。昨日の御理解の中に、あのう「取り上げられる」という御理解がありましたですね。取り上げられるものであっても、こちらの信心が「はぁこれでは取り上げられるはずだ。」
 と言う所が分かって気が付いたら、気が付いて改まって、そこに精進させて頂いたら、取り上げられるものでも、また取り返して頂くというほどしのおかげを受けられるという、その御理解でしたね。私は昨日はある方の事で、その事頂いたんですけれども、昨日「参って見えるかなぁ。」と思ったけど、とうとう昨日は参って見えなくて、実に残念に思っておるわけですけれども。
 本当にあの「このまま取り上げられるのだろうか」と、いうならば心配。というてね、私が、その方のことを頂いたからというて、わざわざその人の家に行って、「今日はこういう、お知らせを頂いたよ。」と言うたんでは、おかげにならんから不思議です。例えば、そういう御理解を、どうか、おかげを頂く時には、頂き合わせる。「はぁあのことは、自分のことだった。」と。
 そして本然と「はぁこれじゃぁ、おかげの頂けんはずだ。」と気が付いてね、神様に詫びるところを詫びり、進めるところは進めていって、始めてそのチャンスを、見つけてあります自転車をね、貰うて帰ることが出来る。だからね「神がものを言うてくれる」というてもです、やはりこちらが、その聞かせてもらう姿勢というものが必要だ、と言う事です。昨日末永先生がお届け、こちらに来るのに、参りますのに、もちろんあちらで永住権を取らなけきゃぁなりません。
 まぁ幸いなことに、金光様の御信者で、そのことの係りをしておられる方がおられるから、その方に頼めば大丈夫だと、本部の方からも、そういう指示があっておった。ところがその方が、今そのそういう仕事を止めて、他の会社に勤められておられる。そいで「そちらの方で色々と工夫をしてくれ」とか、またビリグイの方へ行く前には、あのうなんて言うですか、高橋先生とか何とかですかね、サンパウロ。サンパウロで暫くあちらに、逗留しなきゃならない。
 いろんな事情が、いろんなことが解決するまで。それで全然知らない教会の、いうならそれでもたいした大きな教会でもない、教会と言や名ばかりの教会だろうけれども、本部から派遣されて、本部から「こっち、末永というのが行くから、どうぞ一家四人中で行くから、しばらく面倒を見てください。」というてもらえりゃぁね、まだいいけど、ただ行ってから「しばらく、お世話になります。」と言った様なことでは、「とても居りにくもあろう、行きにくもあろう。」と私は思う。
 そういう問題が重なって、今通知が来ているわけです。神様にお願いさせて頂きましたら、「もうそれでもね、次から次と手がかりが、出来て行くことを御礼を申しあげろ。」ということであったから、次から次と、これがでも、なら「次の手がかりが必ず出来るだろう。これからでも次の手がかりが出来るだろう。」ときのうはまあ話した後で、またそのことをお願いさせてもらいよったら、「神馬にまたがって、蹴散らしていけ。」と頂きました。「神馬にまたがって、蹴散らしていけ」とね。
 なら神様が、そのように、噛んで含めるように、もう、「こりゃぁ、神様のおかげちゃぁ、不思議なこっちゃ。その係の人が、金光様の御信者げな。」というのが、ポッと取れたわけね。じゃぁ本部の方では、「もう自分で都合よう、やっていってくれ。」と言った様な話なんです。まぁ実にこしのない、本当に本部ちゅうところは、こしがなかなと思うですね。
 わざわざそういう布教課の、布教なら布教という課があって、そのことに専念して、自分が行ってからでも、こうしてなら、そこに金光教を広めて行こうとするなら、そういう働きをしてやって、お膳立てをしてやって、そして「さぁ、ここいけ」というふうに言わなければ、大体今度のとでも、本部からそう言うてきたんですからね、始めは。でなからなきゃぁならんのに、そういうこしのないことを言うておる。
 まぁそれはともかくとして、まぁそれを受ける方の側としてはです、ならそのとにかく、次から次へと手がかりを求めて、おかげを頂いて行く事でしょうけれども、やはり信心に、なんとはなしに安心しとったのが、また安心が出来なくなる、次の願いに立たなきゃならんと言う様な感じである。けれどもまぁとにかく「御礼から御礼で行け」と「手掛りがある、でけて行く事を御礼申し上げて行けばおかげになる」と言う事ですけれども、その後には、「神馬にまたがって、蹴散らして行く様な勢いでいけ。」と。
 誰がついて行くかと。「金光大神がついていくぞ。」と、まぁ言わんばかりのこと。神がそう言うて下さってもです、ならそこに「そうだ」と元気を出して、なら蹴散らして行くごたある気持ちで行くのは誰かというと、末永先生。「いやぁもうそれは、もう向こうをあてにしとったとに、そりゃあ向こうに、そのあれもダメこれもいけなかった。」と言った様な、こりゃあもうお先が真っ暗な感じが、例えばするような中にです、神様がなら、ものを言うて下さる。
 けれどもものを言うて下さったからというて、それをただ「さぁ」と例えば神様が言うて下さったら、こちらも「さぁ」という気になって、その気にならなければおかげにならん。取り上げられる、取り上げられる。「ここで取り上げられちゃあならん。」そこにポッと気が付いて、分かるところが分からせて頂いて、次の信心にこちらが入った時に、取り上げられるものも、取り上げられんで済むというおかげが受けられるのであり「こういうふうに、神様が道を開いて下さるんだ」というても。
 それを道をまた歩いて行く者が決して良い道だけじゃぁなかろう。障害もあるだろう。困難な道もあるだろう。それを蹴散らしていくような、元気で行くのは、その神様からお知らせを頂いたもの、神がものを言うて下さるというだけでは、おかげにならない。なら、一日こうやって、御理解を頂いておってもです。頂いておるだけでは、神様がものを言うて下さっておるだけであって、ただ聞き流しておるというだけになる。
 ものを言うて下さっておるのですから、それを私共が本気で頂いて顕して行って、始めておかげになる。「わが心に神がござるから、一心を立てればおかげになる。」というておられる。だからそういういうならば、「一心を立てればおかげになる。」と言う様な、おかげだけでは、信心を頂いておる者としての、お道の信心を頂いておる者としての値打ちもないし、それでは心もとない。ただ一心におすがりして、おかげを頂いてきたということだけではでけん。
 そこでね此方が「生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだ事なし。此方が祈るところは、天地金乃神と一心なり。」と。生きた神を信心するということが大事であり、いつも天地との交流を感じておれれるほどしの信心をさせてもらわなきゃぁならない。それは、合楽理念をいよいよ、行じていくということになるのです。みなさん「合楽理念は助かりの理念」。これをひとつあの心の中に、いつも言い続け、思い続けてください。「合楽理念は助かりの理念」なんです。
 だから「助かろう」と思うのなら、合楽理念をひも説かなきゃぁならない。そしてそれを「あぁもうここも、ここもここも違うとる」、違うとるだらけが分かる。そこから助かりの道が開けてくる。合楽理念にはそんなに色々と、あらゆる角度から説いてある。天地が生きてござる、生きてござる、生きてござるその天地と交流する。それはなら天地の心を心とする生き方。いうなら「天地日月の心になること肝要」と仰せられる、天地日月の心にならせて頂くと言った様な事が、微に入り細にわたって、「こういう、心がけにならなければいけないぞ」と説いてある。
 だから天地との心との一致点というのが、すぐに出てくるわけ。天地と交流してくる。交流してくると、もうそこには、ひとつのリズムが生まれてくる。そのリズムに乗っていくのですから、それこそ「神馬にまたがって蹴散らしていく」と言う様な調子も出てくるわけなんです。合楽理念に基づかずして、助かっていくとか、おかげを頂いていうのは、「わが心に神がござるから、一心を立てればおかげになるのじゃ。」というおかげなんです。そういうおかげでは心もとない。
 絶対のもんでなからなければ、それには所謂合楽理念をひもとかにゃ「はぁここが俺が間違とる。ここんところ知っとってから行じとらんもん。ここんところが徹底してなかったな」。分かるようにいうならば克明に合楽理念がね、長年の間説かれていっておるわけなのです。「合楽理念は助かりの理念」。だから合楽理念を本当に分からしてもらい、行じさせてもらい、自分の心の中に真実、「合楽理念の確立を願うということが、本当の助かりに繋がるのだ」ということを思い込ませてもらわんとなかなか。
 昨日も、二十五日の研修で、本当に合楽、あの今度の理念の特集号が、あの千冊作ったんです。千冊じゃったでしょ。それが私まだ沢山残っとると思うとったところがもう一冊もなかげな。それけんなら誰かが、みんな持って行っておるわけなのですから、みんなに行き渡って持っていっとるとじゃろうけれども、なら「読みましたか」ち聞いたら、誰れん読んどらんもん。何人かしか読んどらん。そしてなら一人で何冊も持っていっとるに違いわないです。千冊のものがアッという間に無くとるから。
 もうタダじゃけんと思うちから、こうやって二冊も三冊も、ちがわん持っていっとるが、そげな人があるなら、いっちょ黙ってここさい持ってくるとは気の毒くかろうけん、そこに返しといて下さい。あとだいぶんまだ頂いておらん人があるわけです。「私どん知りもせんじゃった。」という人がありましたから、「あんた毎日参って来よって、あれだけ言われよってから。」ち昨日申しました。「そげん不熱心です。合楽理念は助かりの理念。このね、言葉をひとつ、もう心の中に頂いてくださいよ。
 だからもう読まにゃ実は言うたら、もうあがしこ言われよる、読まにゃおれんはずなのに、読んでおらん。合楽理念は助かりの理念です。それをね例えば説明すると、ならこのごろから、大阪の青年教師の方達に、私お話したように、「合楽教会は、今こうした御ひれいを頂いておられるけれども、先生あなたが亡くなられたら、後はどうなりますか。」と、こう言われる。
 そうそりゃ、私が死んでみらんと分からんことじゃけれども、合楽教会の場合は、私が特別に有難うして有難うして応えん、というその、もう有難いの塊のような男で、その有難いで人が助かっておるのならば、私が死んだら、コロッとおかげが無くなるかもしれん。かというて、○○教会の先生のように、もう命がけ。命どうなっても、と言う様な勢いで、布教をなさっておられるから、人がどんどん助かったという教会なら、そういう先生が亡くなられたら、確かにガッタッと御ひれいが落ちるでしょう。
 今までかつて大きな教会で、大変御ひれいを頂いた教会ではね、非常に霊徳が優れておられたり、特別な先生方であったところにです、特別な先生が亡くなられたところに、いうならば、二代、三代に、だんだん御ひれいが落ちてきとるわけなのです。そういう意味で例えば、甘木の信心なんかは、そりゃあ、もう、実に素朴な表現です。天地の御恩徳を説かれたんですから。
 けれども本当にね、神の大恩を知れば、子孫も続き代勝りのおかげが受けられると教祖が、はっきりと仰っておられるのに、その神の大恩を説かれたのです。甘木は。だからね、神様の御恩徳の、御ものを大事にしなきゃいけならないぞ。ひとすくいの水でも大事に頂かなければいけないぞ。という実に素朴な表現ですけれども、いうならばおかげの頂けれる理念があるわけです。甘木には。だからそれを守り行じていく限り、甘木の人たちはおかげを頂ける。
 天地の大恩を、いよいよ大恩たらしめていくという生き方を身につけていったら。ところがあまりにも素朴な表現ですから、それが段々口先だけの天地の大恩ということになってくればね、段々これはまた崩れてくるでしょう。そいうい意味で、なら合楽の場合はどういうことかというとね、合楽理念というのは、「合楽理念は助かりの理念だ」と思い込ませて頂いて、これを自分の心の中に頂ききってさえおれば、合楽理念をね、体得しようとも、それを守ろうともしなかったらダメです。
 それがとても偉くなからなければ、有難くなからなければ、というのではなくて、子供でも成そうと思えば、成せれることを、成して行くことであり、やろうと思うたら、誰でもやれれる内容を持っておるのが合楽理念。いわゆるそれが分かり出したら、楽しゅうして、有難うして愉快に、それを行じていけれるというのが、合楽理念だから私の例えば、息子たちが、いうならば、神様が「士農工商揃うた。」
 というてあの子供たちのことを、四人の息子たちのことを頂いたが、この四人の息子たちが、士農工商のそれぞれの立場で、合楽理念の一部ずつでも、行じていく限り、合楽の御ひれいは、私が死んでも落ちんと思うがね、ってというて話したことです。ですから先生方が、みな言うておる、あなた方が言うておる、「○○教会はどうですか。何々教会はどうですか。今隆々たる御ひれいが立ってますけれども、もうあれはもう二仏です。もうあれから上は伸びません。」と。
 「あなた方が言っておる、なら教会には、そういう理念がないでしょうが」と私ね。「その先生が、もう有難い権現のような方。あちらの先生がもう命がけで布教しなさる。だから助かる。他に助かりの理念がない。」だから「合楽理念は助かりの理念だ」と。助かっていない時は、合楽理念ば、いっちょ本気で頂き直して、合楽理念に取り組ませて頂きゃぁ、もうそこに助かりの道が開けてくるんだ。というほどしのもの。そこにです「生きた神を信心せよ。」とね。
 天地日月の心を心とすると言う事は、そのまま神様の心を心とすると言う事ですから、生きた神との交流がいつもあるから、私共が間違って行きよるとね、生きた神様が生きた神様が、すぐお気付けならお気付けの上にね、又はものをそこに言わんばかりに、間違った道は訂正して進めさせて下さるから、いわば生きた神を信心して生きた、神との交流がなされなきゃぁならない。生きた神と交流する為には、合楽理念のいうならば、助かりをひとつ体験しなければいけない。「た一心に拝んだ。参った。」というて、助かるのは、「わが心に神がござるから、おかげになる」という、おかげではいけん。
 合楽理念に基づいての、いわゆる「合楽理念が、助かりの理念」であると言う事を、いよいよ確信させてもろうて。それをいわば楽しゅう、有難とう、行じられるところまで、お互い信心を進めていきたい。いかに神様がものを言うて下さるというてもね、ものを言うて下さって、それをね、例えば、なら末永先生に対して、「神馬にまたがって、蹴散らしていくごたる勢いで行け。」と言われても、「はぁ、もうどうだろうか。どうじゃろうか。」というて、勢いをなくしたら、もうだめだと。
 勢いを持って進んでいくのは、なら末永先生でなからなきゃあならない、と言う事なんです。昨日ここ二、三日奥城のそれこそ「合楽は世界の桃源郷だ」とね。それこそ夢のような奥城が出来るだろう。したらある方がもうほんなこつ夢んごたる事お届けされる。私もそれを聞きながらね「こりゃあ私も、ちっとぼうけるばい。」ち私は思いましたが、「ほんなこつの。そげなふうになるなら、まだ素晴らしかの。」ち言いよったです。そしたら神様からね御心眼にね、「山しお」というお漬物があるでしょう。
 あの「山しお」の漬物で、冷ご飯にそれこそガッシっと、こう取ってからがぶがぶ、そのご飯を食べよるところを頂いたです。私はだからビックリしました。人間というものは、もう本当にちょっとこう、そのおだてられると、もうそのう、「俺より上はないぞ。」と思うたりね、思い上がったり。もう本当に「自分が極楽に行かにゃあ、行く者はおらん。」ちいうごたあるふうな思い方になったりするところに危ない。もう、それこそ、下を、あのう下界とでもいうでしょうかね。
 下を見渡すと山の林が、こう上から見えるんです。その上ばこうやって、眺めておるところを頂いて、もうそれこそ崖がこう付き出しておるところです。高い所。そん崖に立って下をこう見ておる。もうそれこそ目の回るごたあるところです。だから高度に信心がなれば、なるほどにです、もうだから落ちたらもうイチコロです。だからこげん所におったんではいけん。極楽というのは、もうそれこそ、地にほうたような在り方から生まれてくるおかげでなからにゃきゃぁいかん。
 有頂天になったんじゃいかん。それには、それこそ、「山しお」の漬もんで、もうがぶがぶ食べよるちゅうことは、ということは美味しゅうして、美味しゅうして応えんちいうこと。もう鯛の刺身んでん勝たんごと美味しい。もうお腹の減っとる時に、冷ご飯に「山しお」のつけもんで、食べてごらんなさい。もうがぶがぶして食べるでしょが。その山しおの漬物でがぶがぶ、食べると言う様な心の状態が、いつもなからなければ、金光様の御信心は、おかげを落とすです。
 教祖様が仰る「一生が修行じゃ。」と仰る、山しおということは、いうならばどげなしおでも、山でもいうならどういう修行でもです、それを糧もんにして、押さえにしてがぶがぶご飯が頂ける、何でも頂きこなすという、心の状態がいるんだということです。「もう柔らかもんじゃなからなければ頂かれん。こげなもんは美味しくなか。」というて、こう、はね繰り返すごたる時には、もう、おかげは落とす時です。
 「起きてくるすべての事柄をです、がぶがぶ頂こう。」と言う様な勢いが、信心には、どうでもいるです。どういうことがあってもね、それこそ神馬にまたがって、蹴散らしていくぐらいな勢いが、いつでもいるんです。「あれがなからな、ご飯が食べられん。これがなからな、ご飯がまずい。」というのじゃぁなくて、もう「山しお」の漬物、「もう、塩だけででん、美味しゅうして応えん」というくらいにです、私共の前には、そういう、いうなら問題がいくらでん、転がっておるんです。
 だからそれを自分の心の糧にしていくだけの、勢いがなからなければね。と言う様に今日は、神様がものを言うて下さったわけですから、そのものを言うて下さったことを、いうならば皆さんが、「ただ頂いた。聞いた。」というだけではなくてね。いよいよ「生きた神を信心せよ」と仰せられる、生きた神との交流が、いつも絶えずあっておることを、自分で実感できるようなお繰り合わせ。私が昨日、その方の話を聞いて「ほら夢んごたる話しの。まぁそげんとが桃源郷かもしれんの。
 」というてお話に乗っとたらですね、それこそ崖のようなところから、それこそさでくり落つるようなことになるかもしれません。信心ちゃぁ決してどかしこ信心が進んだからというて、油断なでけんです。その時にならそういうて神様が、私にものを言うて下さったから、「はっぁ」としてね、「そげなこつば、私がいちいち聞きよるのならおおごつ。」ということになってきたわけです。
 どこまでも、神様のおかげを頂かなければ、立ち行く事ではないのだから、それこそ神より上になるような心持ちどん、起ってくるようなことでは、おかげにならん。けれども、人間はねすぐそれこそ慢心。かさけと慢心のなか者はおらん。」と言われるぐらいですから、ついつい有頂天になるようなことになっておってもです、天地との交流をいつも頂き、感じておるとです、「おかげを落とさんならん。」
 というごたる時に、その寸前に、神様が、ものを言うて下さることに気が付いて、「はっぁ」とまたもとに戻って、いうなら、まじめな信心がでけることになるのです。此方が祈るところは、天地金乃神と一心なり。」合楽理念を、助かりの理念として頂ききっていくことは、「此方が祈るところは、天地金乃神と一心なり。」と言った様な心の状態。いつも神様と一心一体。
 同体であるという心の状態も開けてきて、愈々おかげを頂いていくことになります。これまでものを言うて聞かせる神様がござらなかったけれども、金光様の御信心は、いわゆる、神様がものを言うて下さる。からというて、徹頭徹尾ね、「めめて食わすように」と言う事じゃぁない。それを頂いてこちらが、その頂き方の姿勢を作らなければ、いくらものを言うて下さっても同じだと。
 「長年お参りしよる。おかげを頂きよります。」いうなら御教えも行じず、合楽理念をマスターせずに、合楽理念も自分のものにせずして、もしおかげを頂いておるとするならば、それは「わが心に神がござるから、一心を立てればおかげになる。」という。それは、金光様ではなくてもね石の祠でも、柱一本に向かって拝んでも、そういうおかげならば頂かれる。そういうおかげに、ただ甘んじておるのではなくて、愈々合楽理念を助かりの理念と言え、それを確信できれる、信心を頂いていきたと思いますね。
どうぞ。